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海照山

ほんせんじ

品川寺 (別格本山)

代表者:仲田順英
〒140-0004  東京都品川区南品川3丁目5番17号 

品川寺の信仰/歴史

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開創から戦国時代まで

品川は、歴史の古い町です。東に海を、西に肥沃(ひよく)な農地を有し、海の幸、野の幸にめぐまれ、人々は豊かな平和な生活をして来ました。1200年、中世といわれた時代からは、「港町」として栄え、江戸時代(1603年~)になると、東海道五十三次の第一番目の宿場町となり「旅人の町」として最も栄えました。当時の人口は、6000人、家数1200件を数え、そのうち約130件前後は、「旅篭屋(はたごや)」でした。 品川寺の歴史は、町そのものです。遠く、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺です。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利(あしかが)・上杉(うえすぎ)の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。その後、太田道灌が、この地に勢力を伸ばすと、道灌は「水月観音」を信仰し、あわせて自分の持仏である「聖観音」像をここに移し安置しました。そして、長禄元年(1457年)道灌は、江戸城を築き、城に移るとき、この地に伽藍を建立し、「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しました。 不幸にも、永禄9年(1566年)、甲州の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたとき、北条氏の支配下にあった品川一帯は、焼き払われ、観音堂も焼かれ、「水月観音」像は、甲州に持ち出されました。しかし、持ち帰った二人の武士は、まもなく発狂し、それを聞いた信玄は、一人の「聖(ひじり)」山伏(やまぶし)に頼み、水月観音像を品川の観音堂の地に持ち帰えらせ、草堂を造り、安置させました。

江戸時代の品川寺

江戸時代に入ると、山形県の僧、弘尊上人が、この草堂に住持し、「水月観音」像を奉持、寛文元年(1652年)四代将軍・徳川家綱公により寺領4800坪を拝領し、太田一族の外護のもと、一大伽藍を建立し、寺号を「金華山普門院品川寺(きんかざん・ふもんいん・ほんせんじ)」と改めました。後に山号は「海照山(かいしょうざん)」となり、太田摂津守(おおたせっつのかみ)も、寺領を寄進し、以来、太田備中守(おおたびちゅうのかみ)、松平讃岐守(まつだいらさぬきのかみ)、松平阿波守(まつだいらあわのかみ)の三家の外護を受け、お寺は大きく栄えました。 この間、明暦3年(1657年)9月18日には、弘尊上人の発願により、徳川三代の将軍、家康(いえやす)・秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)の供養のために大梵鐘が、京都三条の鋳物師(いものし)・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)により、鋳造され、四代将軍・徳川家綱によって寄進されました。この大梵鐘は、徳川三代の将軍の号、東照宮(とうしょうぐう)、台徳院殿(だいとくいんでん)、大猷院殿(だいゆういんでん)と、京都七条の大仏師・康斎(こうさい)による6体の観音像が浮き彫りにされ、さらに、観音経一巻が陰刻されており、「武蔵風土記(むさしふどき)」、「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」には『世にもまれなる梵鐘』と記されている銘鐘です。 宝永五年(1708年)には、江戸深川の僧、地蔵坊正元(じぞうぼうしょうげん)の発願により、座高2メートル75センチの青銅の地蔵菩薩座像(じぞうぼさつざぞう)が、江戸・神田鍋町(かんだなべまち)の鋳物師・太田駿河守正義(おおたするがのかみまさよし)によて鋳造され寄進されました。この地蔵菩薩座像は、江戸に出入りする六つの街道の入口にれぞれ一体ずつ安置され、「江戸六地蔵」と称され、品川寺には、その第一番東海道の尊像として、「天下安全(てんかあんぜん)、仏法繁栄(ぶっぽうはんえい)、衆人快楽(しゅうじんけらく)」の祈願のもと奉安されています。 境内には、樹齢400年の大銀杏(おおいちょう)と、その下に2メートルの自然石に釈迦如来(しゃかにょらい)の種字(しゅじ)「バク(baku-)」を彫り、「光明石(こうみょうせき)」と称して、江戸時代の民間信仰を代表する見事な庚申塔(こうしんとう)も、当時の繁栄を今に伝えています。 江戸時代を通し。品川寺は、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の3つを、お寺の三宝(さんぼう)として、大切にし、町の人々の深い信仰と、東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛されました。