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じしょういん

慈照院

宗務所:備前宗務所   代表者:平田英昭
〒706-0001  岡山県玉野市田井5丁目44-1 

慈照院の信仰/歴史

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慈照院は、点在して浮かぶ瀬戸の島々、四季とりどりに変わる海の色、そんな美しい景観を一望におさめる地形に建てられた寺である。
慈照院の由来は、この寺の開山であるお清大師といわれた平田智清尼の、書き残された由来記によって知ることができる。
由来記によると、お清という人は、平教経の後裔平田常右衛門の娘で、常衛門は、弘法大師を深く信仰しており、幼いときから信心深く育った。十九才の時に大病を患い、お大師様に病気平癒した暁には四国霊場を二十一回巡拝しますという願掛けをして平癒祈願を行った。
信仰の加護により、全快したお清は二十二才のときに始めて四国遍路に旅立った。それから二十九才までの間に、四国霊場を二十三回も巡拝した。二十一回目の四国巡拝から「はだし参り」を行った。その際、二十三番目の札所、日和佐の薬王寺で、旅の出家僧から一本の杖と七足のわらじを授かった。不思議なことに、その出家僧は、それらを授けた後、かき消すように姿が見えなくなってしまった。驚いたお清はこれらはお大師様からつかわされたものと信じ、より信仰を深めたという。若い身空で苦しい修行を重ねたお清の大師信仰は、いつの間にか生大師として仰がれるようになり、近郷近在からの参拝者が増えはじめた。
ある夜、弘法大師が夢枕に立たれ「これからは、汝に授けた杖によって諸人を助け得べし」というお告げがあった。それ以来この杖を、大師の身代りとして信仰を重ねた。また、池田家やその藩士の家中からも迎えられて、加持祈祷に出かけるほどになった。
お清大師の名は既に岡山にも知れ渡っており、天城池田の隠居である成心斎の信仰は厚く、文化三年に自らが筆をとり、庵室に「慈照庵」という庵号をつけたといわれている。これが現在の「慈照院」と改められたものである。
その後も池田家、天城池田の諸氏はしばらくここに参詣されたことが記載されている。特に、時の藩主池田治政はその功徳顕著であったということから、文化五年ここに本堂と庫裏を建立したといわれている。