こうみょうじ
光明寺の信仰/歴史
【寺院紹介】
延岡市は旭化成発祥の地で、企業城下町です。市内を流れる五ヶ瀬川では、アユヤナ漁が盛んに行われます。川は市域の手前で、大瀬川との二つの流れに分かれており、この大瀬川の南、歌人若山牧水の出身校である旧制延岡中学(現・延岡高校)のすぐ東側に光明寺があります。
境内は白壁に囲まれ、南側に切妻造四脚門の山門が立ち、本堂は鉄筋コンクリートの入母屋造です。本堂の本尊は、阿弥陀如来立像と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩、いわゆる阿弥陀三尊で、南北朝時代の作です。九州八十八ヶ所百八霊場会第32番札所の本尊様です。また、不動明王像は九州三十六不動霊場会第11番札所の本尊様です。堂内は弘法大師像、毘沙門天、勝軍地蔵菩薩などの諸尊が安置されています。
本堂の右側に、淡島大明神を祀っているお堂があります。淡島大明神は、和歌山市加太の淡島神社が本社です。淡島は住吉大神の后だったが、下の病にかかり、夫婦の道に障りがあるとされて堺の港から流され、3月3日に加太に流れついたといわれる。そして、自分と同じ病の者を治す誓願を立てたという。以来、婦人の病に霊験あらたかな神として、全国で篤く信仰されている。光明寺には江戸時代に勧請されており、当地方では唯一の淡島大明神です。毎年3月3日には、大般若転読法要、柴燈大護摩、火渡りの行を厳修しています。
淡島堂には、同じく海に関係する恵比寿太神を合祀していて、こちらは、延岡七福神の1つです。また、壁に沿ったお堂に、西国33ヶ所観音菩薩の石仏が並んでおります。
【縁起】
延岡が県と呼ばれていた時代、土持相撲守が、延岡で最初の城となる井上城を築いた。古城町という地名は、この井上城に由来する。さらに、養和元年(1181)豊前国宇佐郡から智賢法印を招き、鬼門除けとして光明寺を創建した。
鎌倉・室町時代をとおして隆盛したが、戦国時代になって大友宗麟の侵攻により土持氏が滅亡。光明寺も衰微し、現在地に再興される。
慶長15年(1610)有馬直純が、肥前国高来から入国。当寺の尭意法印に帰依して、寺領百石を寄進し、高千穂など32村の廻檀を許された。これ以来、三浦家、牧野家、内藤家の代々の領主の祈願寺となった。さらに真言宗醍醐派の日向国の袈裟頭となり、修験道の中心となる。
明治の廃仏毀釈および修験道禁止令により、末寺や修験の寺院とともに廃寺となった。明治13年(1880)再興の許可を得て、順次伽藍を再興している。