だいしょうじ
大聖寺の信仰/歴史
大聖寺は旧称を「鏡智院」といい、もともとは西国第二十九番札所松尾寺の塔頭でしたが、明治三十四年の舞鶴海軍鎮守府開庁及び新市街地整備を機に、時の松尾寺住職懸空上人が一層の教線拡張を願い、明治三十六年、東西舞鶴を結ぶ交通の要所である現在地に移転されたものです。
塔頭の移転とはいえ、本尊大聖不動明王は松尾寺本坊遍明院護摩堂の主尊であったことが知られており、また、移転時の資料からは用地の選定や買収など、新寺建立ともいうべき大事業であったことがうかがえます。
懸空上人は時の鎮守府司令東郷平八郎との親交が厚く、「鎮守山」の山号はその縁により名づけられたそうです。当山に東郷元帥所縁の品などは残っておりませんが、松尾寺には懸空上人が東郷元帥に贈った
北門鎖鑰巍然成 虒踞龍盤気勢昌
鎮海将軍西海傑 西郷之後有東郷
【北門の鎖鑰(さやく)(鍵となる要衝)巍然として成る。虒(てい)(水中も泳ぐという虎、架空の動物)踞(きょ)龍盤(虎や龍ともまごう勇猛の兵卒、踞も盤もうずくまる)気勢昌(さか)んなり。鎮海の将軍西海(薩摩)の傑。西郷の後に東郷あり。
・・・読み下しと注釈は、松尾寺前住職松尾心空師著『「武士道」について』より・・・】
という漢詩の墨跡が残っています。
懸空上人は一時高野山大学林に勤められ、また北海道開教にも意欲的で、瀬棚村に霊明寺を建立、更に懸空上人の実の甥で北海道に同行した了山上人は、室蘭に大正寺(北海道三十三観音霊場第三十三番札所)を開かれました。
当山は、移転後まだ百年を経過したばかりですが、大正五年の本堂をはじめ徐々に諸堂が整備されるとともに、近畿楽寿観音第二十二番札所にも指定されています。また、楽寿観音像横のお堂には等身大の七福神をお祀りしております。