ちょうふくじ
長福寺の信仰/歴史
当山は天文十八年和泉坊清教法師の開山に依る清教法師は京都近郷の修験者で公家派で、戦火で寺を失しない縁者と共に西国に逃れ日向の国耳津港に上り山添いに南下し当地に着き、湧水を見つけ、人の住んでいる気配がないので住所と定め一同と田畑を拓き神仏を祀り安住の地として住みつかれた。其の後遠近より徳をしたつて人々集り来て寺迫村と呼ぶようになり、寺子屋を開き栄えてきたが、明治元年の神仏分離令廃仏毀釈につつき修験宗廃止令に依り住職清祐は帰農した。明治八年信教自由の令に依り黒貫寺の子弟に入り僧侶となり明治十二年十二月五日付を以って真言宗管長權大教正守野秀善管長より教導職試補佐に任せられ長福寺を再興す。明治二十年十一月二十六日付を以って宮崎県第二号支廰部内部長を申し付けられ神事仏事共々昔通り務め末たり其れより今四代目に当り開山より三十世である今では町史県史等にも収録されNHKが放送のビデオ撮りにも末。宮日新聞社が記事取りに来たり又今のたび県誌「児湯の歴史」の本を出版されし其の中にも「神仏混渚を伝える長福寺」と言う名目で記されている又小学校の先生が毎年生徒を連れて見学とお話を聞きに来て一人一人の感想文をお寺に持ってきてくれるそれを見ると今後益久世間に開かれた寺としての取り組みが大事であると思う。