大聖山

ふどうじ

不動寺

宗務所:大阪宗務所   代表者:藤澤寛秀
〒560-0056  大阪府豊中市宮山町4丁目7-2 

不動寺の信仰/歴史

不動寺は、平安時代に弘法大師によって開かれました。 寺伝によると、大師が諸国巡業中兎我野の地(現在大阪市北区兎我野町)で七色の光を放つ石を見つけ、 これを五輪宝塔に仕上げ、不動明王の梵字を刻み本尊とし、不動堂を建て、お祀りをしたのが始まりとされています。

その後、嵯峨天皇、後鳥羽天皇の勅願所となり、豊臣、徳川の庇護を受けながら「兎我野の不動様」として、 広く庶民の信仰を集めてきました。

近年、数度の戦乱にも遭遇し、特に第二次世界大戦の戦火では堂宇が全て焼失しました。

その後、昭和二十五年には本堂を再建しましたが、寺の周辺が歓楽街化するなど環境の悪化が深刻化し、古くから伝わる大護摩法も次第に行えなくなり、昭和四十一年に現在の所在地に移転いたしました。

現在、本堂脇にある木造の護摩堂や仁徳天皇が愛したという白鹿堂、第二次世界大戦の英霊を祀った英霊堂は、古い建物を解体して移転したものです。

詳しくは大聖山不動寺ホームページをご覧下さい

http://fudouji.jp/index.html

一條天皇の長徳年間(995頃)の創立で平等山地蔵寺と称し、本尊に不動明王、脇士に地蔵尊を安置した真言宗の寺院であった。
延元年中には、篠束明神の社殿造營の際、当時の住職が遷座導師をつとめている。永禄元年(1558年)兵火にあい、全焼したが、本尊と脇士は難を免れて仮屋に安置された。その後、威宝という大徳の僧が当地に巡錫の際、本尊脇士が仮屋に安置してあるのを見てこの地に留まり、篠束明神の辰巳の方に堂宇を建立した。永禄の末頃、威宝の弟子、束山が伊勢国山田の世義寺に入り、大いに研鑚の功を積み、帰郷して師の後を継ぎ、師の功を永く留めるため地蔵寺を威宝院と改称し、以来16世を経て今日に至っている。今の堂宇は、明治36年基礎工事を始め、大正年間に完成した。

北之坊満福寺縁起
当山は、もと寺号を弁宝山満福寺と云い、北之坊はその坊号で、本尊は秘仏で、千手観世音菩薩を安置している。開基は不明であるが、伝説よると、町内外に数ヶ所満福寺、又は北之坊跡が残っている。同町小山田地区の艮神社の棟札には、永和二年(一三七八)に北之坊が導師となったことが記されている。寺の記録によると、本堂は延宝七年(一六七九)十月、住職俊雅基清の発願によって再建された。その後、中興の慧照によって宝歴八年(一七五八)に改築された。また、持仏堂庫裡は、安永六年(一七七七)再建、三十三観音堂は、天明二年(一七八二)三月、建立された。近年では平成十六年(二〇〇四)四月鐘楼堂横に高さ十三メートル(台座含む)の一石彫りの聖観世音菩薩石仏を建立し、当山本尊の三十三年に一度の本開扉法要に合わせて開眼法要を修行した。また、播磨・備前・備中・備後の観世音菩薩を安置する三十三ヶ寺が結集し、開創された瀬戸内三十三所観音霊場の第二十八番札所である。

高速道路を下りると3㎞(5分)で着きます。静かなお寺です。大師堂には九州で有数の大きなお大師様が迎えてくれます。醍醐の教え実修実証を守り、厄除や交通安全、水子供養等の各種の祈願を修す山伏の寺です。寛政元年に臼杵藩の祈願寺となり藩地その一族、特に奥様方がお参りくださいました。境内には日本地図を最初に作った伊能忠敬の碑があります。庭のつつじはつつじの名所として有名です。凝った造りの鐘楼門を入ると、右に東南アジアを思わせる仏塔の上に厄除大師が祭られています。

当山は龍北山持法院と云い、延宝元年(1673年)知元法印開基により、岡崎藩の北部一帯が祈願信者で祭礼御日待の行事が行われて来た。現在も地鎮祭御日待、荒神祓いが行われている。近年は他県より移住の真言宗徒の葬儀の信頼もあり、年忌、春秋彼岸法会、盆施餓鬼法会も行っている。
尚当山第5世良元法印の時岡崎藩家老梶勝與五男豊丸が入寺するも幼少にて死亡する。第七世円亮法印大正九年市内松本町より現在地に移転、今日に至る。