ふどうじ
不動寺の信仰/歴史
不動寺は、平安時代に弘法大師によって開かれました。 寺伝によると、大師が諸国巡業中兎我野の地(現在大阪市北区兎我野町)で七色の光を放つ石を見つけ、 これを五輪宝塔に仕上げ、不動明王の梵字を刻み本尊とし、不動堂を建て、お祀りをしたのが始まりとされています。
その後、嵯峨天皇、後鳥羽天皇の勅願所となり、豊臣、徳川の庇護を受けながら「兎我野の不動様」として、 広く庶民の信仰を集めてきました。
近年、数度の戦乱にも遭遇し、特に第二次世界大戦の戦火では堂宇が全て焼失しました。
その後、昭和二十五年には本堂を再建しましたが、寺の周辺が歓楽街化するなど環境の悪化が深刻化し、古くから伝わる大護摩法も次第に行えなくなり、昭和四十一年に現在の所在地に移転いたしました。
現在、本堂脇にある木造の護摩堂や仁徳天皇が愛したという白鹿堂、第二次世界大戦の英霊を祀った英霊堂は、古い建物を解体して移転したものです。
詳しくは大聖山不動寺ホームページをご覧下さい
<寺歴>
昭和四十六年、浦幌町相川に教化布教所として開いた大光明教会が前身。
後に現住職が中川郡池田町の地に拠を移し「真言宗醍醐派 清見山 慈法院」として本堂を建立してさらなる信徒の教化に励み、信仰の道しるべとして現在にいたる。
特に初代から真言密教と修験道の教えを元に山岳修行に励みながら柴燈大護摩や火渡り修行を行い、その霊験あらたかなことに現在も多くの人から信仰を厚くよせられている。
本尊は大日如来、左右脇本尊に青不動明王立像と倶利伽羅剣を持した不動明王坐像、堂内には千手観世音菩薩像、孔雀明王、宗祖弘法大師像をお祀りする。
又、真言密教の護摩供祈祷を修する護摩堂には不動明王を中心とした五大明王像、虚空蔵菩薩、派祖聖宝理源大師をお祀りし、境内には馬頭観世音菩薩をお祀りした一切の家畜供養を行う馬頭観世音菩薩堂がある。
山号は清見山(きよみざん)。
承和四年(八三七)大和西大寺の僧忍性上人の創建に係るものと伝えられる。上人は仏道を広める途次、伊勢神宮に参拝、外宮にて地上を加持したとき、池の水が白糸の如く西北方へ飛び去った。弟子空尊に確かめさせたところ、当山の松の木に懸かり十日程消えなかったという。上人は大神宮の霊告にて弘法の地を示されたと感得し、直ちにこの地へ堂宇を建立された。
文明の末(一四八〇~)時の住僧は開山縁起の尊さを悟り、一心に崇信に勤め、人々もまた広く信仰崇拝し寺運は興隆した。
慶長元年(一五九六)には紀州藩より寺領をうけその後紀州徳川頼宣公は先例の寺領と共に、七堂伽藍を建立、寺容を完備した。その規模は現在の数倍はあったといわれる。また紀州徳川家「葵」御紋の使用を許されたという由緒ある寺院である。紀州家代々の位牌は今も厳然と安置されている。
惜しいことに元治元年(一八六四)火災に遭い、堂宇は焼失したが、平成四年に本堂を再建した。
本尊十一面観音は大正三年(一五七五)造立、運慶作という。
境内には本堂、地蔵堂、観音菩薩立像が造立されている。近在の人々から大里の観音さん、大里のお大師さんと親しまれている。
八月二日に施行される百万編念仏行事は、俗に数珠繰りといわれ、大きな数珠を数十人の人が回しながら般若心経を唱え祈願するもので、伝統の祈願作法で最近では珍しい行事である。
その昔弘法大師が伊勢参拝の折、当山へ尺上をとどめられたことが大里大師の由来となっている。
当山は天文十八年和泉坊清教法師の開山に依る清教法師は京都近郷の修験者で公家派で、戦火で寺を失しない縁者と共に西国に逃れ日向の国耳津港に上り山添いに南下し当地に着き、湧水を見つけ、人の住んでいる気配がないので住所と定め一同と田畑を拓き神仏を祀り安住の地として住みつかれた。其の後遠近より徳をしたつて人々集り来て寺迫村と呼ぶようになり、寺子屋を開き栄えてきたが、明治元年の神仏分離令廃仏毀釈につつき修験宗廃止令に依り住職清祐は帰農した。明治八年信教自由の令に依り黒貫寺の子弟に入り僧侶となり明治十二年十二月五日付を以って真言宗管長權大教正守野秀善管長より教導職試補佐に任せられ長福寺を再興す。明治二十年十一月二十六日付を以って宮崎県第二号支廰部内部長を申し付けられ神事仏事共々昔通り務め末たり其れより今四代目に当り開山より三十世である今では町史県史等にも収録されNHKが放送のビデオ撮りにも末。宮日新聞社が記事取りに来たり又今のたび県誌「児湯の歴史」の本を出版されし其の中にも「神仏混渚を伝える長福寺」と言う名目で記されている又小学校の先生が毎年生徒を連れて見学とお話を聞きに来て一人一人の感想文をお寺に持ってきてくれるそれを見ると今後益久世間に開かれた寺としての取り組みが大事であると思う。